成人式を経て、本当に成人できた感覚。


成人式と同窓会を終えた感想は、
まるで夢の中にいるかのようだった。



約2年振りに顔を合わせる高校時代の面々。
雰囲気が変わった人も、変わらない人もいる。



彼らの顔を見ると、ふと、過去の時間が流れ始めた。
大学生活という日常の中に、非日常的なひとときが割り込んだのである。
不思議な感覚だ。



自然と、高校時代の自分を振り返る。
かつての学友との交流は、否応なしに当時の私の人間関係を想起させるから。



そこで生じた疑問。
――高校時代の自分は、誰だっただろう。



部活をはじめ、特定の何か集団に帰属した記憶の乏しい私。
「つるむ」というのがあまり好きではなかったから、
こういう同窓会のような場では戸惑うのだ。



学友との関係における「気の置けない」度合いが、相対的に低い。
会話をするにしても、どこか遠慮が生じる。
そこにあるのは、探り探りのコミュニケーション。



場に「馴染んでいる」という実感が薄く、
その違和感を酒でごまかす。
意味もなく大声で笑ったりして。



いきおい思考は内向きに、負の方向へ向かう。



高校時代の三年間、あれでよかったのか?
もっとほかにしておくべきことが色々あったんじゃないのか?



この煩悶が頭をかけめぐった。



しかし、しばらく悩んで、また気付いた。



――そうやって過去のことを振り返って疑問を持つということは、それだけ自分が成長した証ではないか。



そのときは気付かなかったことに、今は気付けること。
「気付き」の多さは、その人の人間的な成熟度と比例する。
逆に、子供は、自分の周りのことしか見えない。



生まれたばかりの赤子は、ほとんどの時間、母親だけを見て過ごす。
そして成長と共に、友達や先生などへと、目を向ける対象が増えていく。
さらに、観察したものを自分なりに理解し、思考に定着させることが「気付き」である。



気付きが多いということは、それだけ多くのものを観察し、吸収しているということだ。
その一つを、この同窓会で戸惑い、過去を振り返った経験から得た。



してみると過去を後悔することも、あながち悪いことではないのではないか。
というよりも、後悔から気付きを得られれば、それは反省へと変わり、次に繋がっていく。
踏み外した道も、やがて積み重なり、揺らがないものへと変わっていく。



なによりも、私自身の経緯を、落ち着いて振り返ってみると、
「こうなるべくしてこうなった」としか言えないのだ。



高1までは経済学部を志望していた。
高2のとき、部活等がない私は、自らのアイデンティティを文章に見出した。



あるとき「小論文コンテスト」なるものに応募することを思い立ち、
そこで内田樹氏のブログに出会い、著書を読んで、大いに感銘を受けた。



これが私を文学部仏文科へ行くことを思い立たせた。
小さな立志の瞬間である。



だから、当時の私がもし部活に入っていたら、今この文章はない。きっと。
そして私は今の人生を楽しんでいる。



これでいい、とは全く思っていない。
むしろ現状には不満だらけだ。
だからこそ、まだまだ成長できる。



――凄い。
成人式を終えて、いまこれを書いている瞬間、
ほんとうの意味で成人した気がした。