まるで天命を受けたような


まるで天命を受けたような。
それくらい、大きな感銘を受けたのだ。



  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □



先日、私が所属しているサークルは、
世界と遊ぶ文芸誌「界遊」の編集長、Tさんにインタビューを行った。




(界遊)



「『界遊』創刊に際して」という、創刊号の序文が、
何よりも強烈に私の琴線に触れた。



以下引用。



いつからだろう。何かを好きになることが、他の何かを遠ざけることと同義になってしまったのは。趣味の分化が前提となって久しい現在、それぞれが選んだコミュニティの中で、好きなものを好きなだけ摂取する。唯一の価値がなくなって、選択肢が増えたことは一見健康的に見える。だが、そのような場所にあるのは、今まで自分がせっせと摂取してきた好きなものたちと、そう大差のないものばかりだ。そうやって、好きな物たちで自分の周囲を覆っている。コミュニティーを分断する壁は、どんどん厚く固まってゆく。そしてふと視線を上げると、次の一歩を踏み出すためにあった、その空間すら埋まってしまっている。」(1頁目)



そう。
そうなんだ。



例えば、誰かが「文学が好きです」と言うことは、
単に「純文学系の小説を読むことを好む」という辞書的意味を指すにとどまらない。



私たちの生きている社会が、これに含意的ニュアンスを付与する。
たとえば「大衆小説はあまり好きではない」、「ライトノベルは読まない」など。
本人にそのつもりがなくとも、そう解釈される場合がある。



「アニメが好き」という言葉を、衆人環境で声を大にして言うことはタブー視されている。
周囲に認知されると同時に、「彼はオタクである」というレッテルを貼られるからだ。



「ハリウッド映画が好き」な人は、サブカルティックな映画が好きな人と、
なんだか相容れない気がしてならない。



私は、マンガ読みだけど、
ジャンプやマガジンに代表される週刊少年誌のマンガを、滅多に読まない。



そう、まさに、私たちの社会は、
何かを好きになることが、他の何かを遠ざけることと同義」な社会なのである。



そして、「何かを好きである集団」は、その中での排他的な結束を強めていく。
自分の好きなものだけ享受し、テリトリー外に属するものには見向きもしない。



界遊は、この価値観に警鐘を鳴らす。
「世界と遊ぶ」と銘打たれた通り、この文芸誌の扱うコンテンツは多岐にわたる。



小説・お笑い・マンガ・アニメ・女子高生・詩・俳句などの他に、
003号には「たべる、野菜だけを 〜ベジタリアン実践レポート〜」と題した、
野菜しか食べない生活を1ヶ月間行った、なんともストイックな記事が紛れ込んでいたりする。



スタッフの一人ひとりが、それぞれの好きなジャンルを持ち、
同時にそこにとても深い問題意識を懐いているのが伝わってくる。



そして、自分がそれまで興味を抱いてこなかった分野のコンテンツにも、目を向けてみる。
――面白い。



なるほど、と得心する。
「世界と遊ぶ」というコンセプト。
目先の益を求めたり、出版することを目的化しない、そのビジョン。



ユーザに阿らず、ユーザを作る。



そうか。
これか。



まるで天命を受けたかのように、
自分の考えや経験が有機的に繋がっていく感覚。



繋がった結果、何が見えてきたのかは、また後日。