話題作と面白い作品は、必ずしも一致しない――間瀬元朗「イキガミ」


※あとがき:「死」というワードがやたら頻出する鬱記事になりました。テンション下げたくない人、創作論に興味のない人にはお目汚しになるかもしれません。



イキガミ
何かと話題だったので気にかけていた。
ブックオフで100円だったので手に取ったのだが、読んでみるとどうにもしっくりこない。



イキガミ 6 曝かれた真実 (ヤングサンデーコミックス)

イキガミ 6 曝かれた真実 (ヤングサンデーコミックス)



wikipediaイキガミ」の“ストーリー”から引用)

「国家繁栄維持法」。この法律は国民に「生命の価値」を再認識させることで国を豊かにすることを目的とし、その手段として若者たちを対象にしたある通知を出している。その通知とは「逝紙(いきがみ)」と呼ばれる死亡予告証である。 およそ1000分の1の確率で選ばれた者は、紙を貰ってから24時間後には死んでしまう。

(引用終■)



主人公は「逝紙」の配達人。
そして配達された人達、すなわち自らの「死」まで残り24時間の命になった人達は、
それぞれが自分の人生を全うしようとする。



この設定は巧い。
よく作ったものだな、と思う。
しかし、それ以上の「読んでいてわくわくする」、「続きが気になる」といった感情が湧いてこない。



なぜだろうか。
まず思い当たるのは登場人物の造形、人間性の浅さなのだが、
これについて筆を下ろすとただの「批判」になるので書かない。



そうではなく、あくまで創作に活かせる形で「イキガミが何故、読んでいてわくわくしないのか」を考えたい。



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この作品は、人の「死」を題材に扱っている。
人が死ぬ、ということがあまりに当たり前になっている、というのがこの作品の最たる特徴である。



だが、そもそも「死」とは、小説や漫画のストーリィにおいてどのような役割を果たしてきたか。
それは起承転結で言うと、「転」にあたるものではなかったか。



ミステリでは「起」になることが多いけれど、
他の一般的な作品では、登場人物のうちの一人が死んでしまう、という事態は、物語を急転させるスイッチとして機能することがほとんどだと、私の拙い読書体験が告げている。



各エピソードを読み始めるとき、イキガミの読者は既にそのキャラが「死ぬ」ということを知っている。
そして、それが絶対に覆らず、奇跡も起こらないことも感覚に染みている。



だからではないか。
「転」で死を扱った場合、「思い入れのあるキャラが死んでしまう」という事実が感情移入を促す。



しかし「この人が今から死にます。彼のこれまでの人生と、最後の24時間をいまから紹介します」となってしまっては、あまりそそられないというか。



「ぼくらの」も近い部分があるけれど、あれはまだ「死ぬ人がランダム」という要素がある。
イキガミは、まず「死ぬ人をピックアップ」から始まり、そしてその人の人生にスポットを当てる。
なんだか興をそがれるのも、無理のない話かもしれない。



ただ、それとは別の軸で考えたのは。
僕たちは「死」が目の前に迫らないと「生」を実感できないのか、という根源的なテーマ。
それに対する気づきを与えてくれたという点には、イキガミに感謝したい。