自己分析をやめて、また始めよう

自己分析。
私はこの単語が嫌いであり、好きでもある。



カッコ付きの<自己分析>は嫌いだ。
就活とかで異口同音に必要性が叫ばれるアレね。



いろいろツッコミ所はあるけれど、
何よりその<自己分析>の目的が見当違い。



「自分に合った仕事を見つけるために、自分の性格や適正を分析する」
というのがカッコ付き<自己分析>であると私は解釈しているが、
それはあまりに不毛ではないか。



適職は経験と、そこから来る直感、そして実際に職場で仕事をしていくなかで見つけるもの。
それは答えのないプロセス。



あたかも「自分には予め何らかの適職がある」かのような仮定をし、
それを「探す」ツールとして自己分析を行うのは見当違いも甚だしい。



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では、私の好きな自己分析とは何か。
――といっても、別に大それた話ではない。
原語の趣旨通り、自分がどういう人間なのか、分析をするというだけの話だ。



今まで、自分はどう生きてきた? それについてはどう思っている?
1年後、3年後、5年後の自分はどうでありたい?
そのために、今なにをする?



これらを考える中で、次のものを付随させる。



自分が得意とすること、苦手とすること。
さらっとできること、手間と苦労をかけないとできないこと。
相性の良い人、悪い人。


価値観に沿うもの、沿わないもの。
興味が赴く対象。
何をしているとき、やりがいを感じるか。


自分が今の自分である理由。
そして、生きる目的。



こうして挙げた項目と、先ほどの<自己分析>の違いはいかなる点にあるのか。
それは、ひとえに「目的」が違うのだ。



もちろん、その目的は就職や入社などではない。
こちらの自己分析の先には、常に「人」を見据えている。



すなわち「人間」が目的となっている。



目の前の人と関係を築くとき、そこには正解はない。
また、仕事の先にいるのは常に「人」で、仕事の良し悪しにも正解はない。



正解のない課題にぶつかり、試行錯誤するとき、そこには「軸」が必要だ。
「軸」とは、たとえば先ほど箇条書きにした項目がそれにあたる。



自分の行動が、自分の「軸」に沿っていたか?
沿っていなかった場合、それについてどう考えるのか。
軸を曲げるのか、別のやりかたを試みるのか。



そこで頭を使って真剣に考えることで、人は本質的に成長していくと思う。
このことは既に多数の成功者が帰納的に実証しているのではないか。



もちろん、「天性」でコトが足りているうちは、こういう面倒臭い思考は必要ないだろう。
だが、あいにく私は凡夫でしかない。だから、人より頭を使わなければならない。
その時にツールとして機能し、本質的な価値を生み出すのが、自己分析である。



些か抽象的な結びになったけれど、
だから、私は、自己分析が好きなのだ。