映画のみかた
先日のメディア論ゼミの発表が面白かった。
テーマは「映画」。
題材のテクストでは、メディアとしての映画館を扱ったもので、
パノラマ館から現代のシネコンに至る歴史を追っていた。
発表のテーゼを抽出すると、こうだった。
「映画館に入ると、観客は退室や音を立てることを禁じられ、身動きしないまま映画を最後まで見る。してみると、映画館は身体的束縛の中で、M的に映画を観賞する空間である。」
これは、とても面白い視点だと、私は思う。
そこにいるからには、一作を通しで観ないといけないのである。
対象的にDVDは、自由に再生、切り貼り鑑賞ができるメディア。
携帯でメールを打ちながらでも観ることができる。
私のDVDの使い方はもっとひどい。
純粋に作品を楽しもう、という気はあまりない。
後々こうしたブログで書いたり、創作の肥やしにするために、見る。
印象的なシーンをメモしながら観たり、そうした場面を何度も再生しながら、
テキストエディタをカチャカチャして台詞の引用をしたりしているのだ。
あと、幼少時から映画を積極的にたしなんでこなかった私にとって、
映画とは一種のコンプレックスだ。
人と、映画について、あまり深くは語れない。
好きな作品はいくつかあるけれども、その作品が映画史において占める
コンテクストや立ち位置を、あまり知らないのである。俳優の名前にも詳しくない。
そのコンプレックスの裏返しからか、「ゴダールごっこ」という視聴法を試みたことがある。
フランス映画の巨匠、ジャン=リュック=ゴダールは、
20〜30分映画を見たら次の映画館へ移動、そこでも20分みたらまた次の映画館へ……
という、一般的な価値観からすると「邪道」と言われかねない鑑賞法をしていたらしい。
(永江朗「不良のための読書術」より)
それに倣って、自分もTSUTAYAの100円レンタルセールで「名作」をガッツリ借りてきて、
短時間鑑賞で膨大な量を一気に観たりした。
これによって、
「ああ、ゴッドファーザーは昔観たことがあるよ。記憶が少し曖昧なんだけど……」
という、もっともらしい鑑賞経験が少し身に着いたのである。
自分で書いていてなんだが、醜悪な鑑賞スタイルだ。
教養主義は、みにくいですね。
閑話休題。
何が言いたかったかというと、DVDはそうした「不健全」な見方ができるメディアであり、
作品を一から十まで鑑賞することが前提の映画館とは、質の異なるメディアなのだ。
そして私は映画館にはいかない。
映画はあくまで抽出と分析の対象だからである。
単に、一緒に行く相手がいないんだろ、という謗りがどこかから聞こえてきた。
――鋭いじゃないか。