与えられるのを待つ前に、まず自分が与える


私が出ている某ゼミは、「掲示板」というツールを用いている。
毎回のプレゼン、その発表者へのコメントや、ゼミ内の議論で消化し
切れなかった話をこの「掲示板」に書き込む。



書きこむこと自体もそうだけど、お互いを評価し、時には指摘し合う、
ギブ・アンド・テイクの精神をこれへの書き込みを通じて身につけてください



と教授は言う。
なるほど、確かにそれは大切だと思う。



私は一年の時もこのゼミに入っていて、その時は今よりもずっとこの掲示板にご執心だった。
教授の文体や視点に憧れ、無心で「良い書きこみをしよう」と思い、ひたすら文章を書いていた。



人の発表については、他の誰も気付かないようなことを発見し、指摘しよう(あくまでポジティブに)。
内容については、誰よりもわかりやすく、深い考察を書いてやろう。



そう思っていた。
結果として、この経験は今の私のかなり大きな部分を成している。



さて、時は現在。
というかつい先週のことだけど、先生が書き込みの少なさを嘆き、
生徒を遠回しに嗜めるコメントを書きこんでいた。



以下引用。



掲示板」への「書き込み」は単位をとるためのものではありません。自分の発表に対して他の参加者が寄せてくれた、あるいは寄せてくれるであろう「書き込み」への、ごくごく当然の返礼です。でも、「この返礼はめんどうだ、だって書いてって頼んだわけじゃないし、うざいし」、という感覚が広がると、それこそACジャパンに、「すたれゆく give and take、自分だけおいしければオッケーだもんね編」の広告の制作を依頼しなければならない事態が来るかも……。まあ、いいか。どうせ、そのツケがまわってくるのは皆さんご自身だから。
(引用者注:この回のテーマは「広告」でした)



この書き込みを受けて、その回の掲示板ではちょっとした議論になったりして
(決して「荒れた」とかではなく、あくまでポジティブな議論)、
結果として、その回と、次の回(今週)は書き込みが凄い勢いで増加し、
一スレッドあたりがかなりの長さになっている。



ギヴ過多なんじゃないか、っていうくらいスレッドが長い。
特に、「熱心に書きこんでいるな」と感心してしまう後輩が二人。
昔の自分を見ているようで、なんだか愛おしくなる。



こっちも負けてられないから、もっと人のプレゼンをしっかり聞こうと思うし、
もっとしっかり考えよう、と思える。



先輩、という存在は、それが後輩にとって何かしら「凄いな」と思われる存在でないと、
彼が「先輩」である意味を失うと私は考えている。



単に能力的な話にとどまらず、経験などによって造成される総合的人間力など、
何かしらどこかしらの部分が後輩に「見習われる」ようでないと意味がない。



そして、私が後輩に見せたいのは、能力でも経験でもなく、
「人にギヴする姿勢」である。



無償でギヴができるということ。
それが心の豊かさやゆとりを作るということ。
心の豊かさやゆとりが、良い縁や充実を呼んでくるということ。



これらを見せられたら、良い。
それだけで、良い。