悩み


私は自分に自信のない人間である。
人格の9割以上がコンプレックスで出来ているのではないかと思う。



改めて考えてみると、今の自分を築いている能力やスキルも、
全てコンプレックスの裏返しとして身につけたものだと気付く。



凄いヤツにならないと、人の視線に留まらない。
それが嫌だから、人前では自分を良く見せようとする。
良く通る声で、なるだけ知的に喋ろうとしたり、喋る内容もとびきりのモノを用意する。



もちろん、20年も生きていると、それなりに他人から誉められる経験もしている。
それは論理的思考力や問題解決力であったり、とある場を盛り上げる「面白さ」であったり、
話術であったり、「良い」、「よく通る」と言われる声であったり、こうして書く文章だったり。



しかし、それらは全て、所謂後付けの産物に過ぎない。
私という人格に後天的に付与された、ただのメッキである。
メッキを誉められても、心は満たされず、そこには虚無感が残る。



何故、こんなことを考えるのか、自分でもわからない。
ただ「根拠のない自信」とかいうものが再び崩壊しているのは確かである。
(一度目はインターンの時)



「肩の力を抜いて、なんとなく自信を持てばいい」と言う人がいるかもしれない。
私だって、そうなったら楽になるのは解っているし、それが出来ていれば苦労しない。



根拠のない自信によって、この問題は解決しない。
なぜなら、この問題の最も中核を成すマターは、
「他人からの<評価>は解るけれど、<愛>が解らない」というものだから。



愛という言葉は多義的で、その構成要素も様々だけど、一つ絶対に欠かせない必要条件を挙げるなら、
「その人が、ただそこにいる事が、嬉しい」
という、"根拠のない、存在の全肯定"だと思う。



この感情が、時に解らなくなることがある。
<評価>は可視化できるけれど、<愛>は可視化できない。
目に見える形にならないからこそ、怖い。



友人や異性にたいして、自分がそういう感情を向けることはある。
だから、その感情を理解することはできる。
ただ、それが自分に向くという状況を、信じられなくなることが多々ある。



理由は色々とあるかもしれないが、最も大きなものは、
「自分が思っていることを、相手も同じくそう思っているとは限らない」
ということを最近よく実感するからだろう。



先ほど解決案として登場した、"根拠のない自信"というものは、
<評価>を得るための実績を作るのには貢献するが、
人から愛されることにはあまり寄与しないと私は考えている。



コミュニケーションは、常に"相手"を想定することで、初めて成立する。
だから、ここにおいて自己完結的な考えはむしろ障害になる。



もう一度書こう。
「自分が思っていることを、相手も同じくそう思っているとは限らない」



言い換えるとこういうことだ。
「自分が良かれと思うことを、相手も良いと考えるとは限らない」



私の拙い経験では、たとえば
自分が気持ちいいと思って歌っている人の歌は往々にして聞き苦しいし、
自分で書いてて面白いと思い込んでいる人の小説は往々にして面白くない。



思いこみの感情を一方的に相手にぶつけるのは、なんとも拙いことではないか。



結局、この悩みから抜け出すためには、
"もっと相手の声を聞くように心がける"のが賢明だろう。
相手の話に耳を傾けていく中で、その人の考えていること、求めていることを察することである。



また、根本的に"出会いの絶対量"を増やし、多様な価値観に触れ、
上述のスキルを研ぎ澄ましていくことが、
とりあえずの解決策ではないかと思う。



そんな、目の前の不安から逃げる解決策に飛び付くあたり、
私の思考も安いものだ、と思ってしまう。