100円玉

100円玉を拾った。



後に気付いた事だが、これは私にとって大きな痛手となりそうである。



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午後7時。人がめまぐるしく往来する高田馬場駅の改札前で、私は人を待っていた。
"キヨスクの辺り"という漠然とした指定だったので、どこに立てばわかりやすいだろう、
とその周囲を歩いた末、ある一点に立ち止って待つことにした。



ふと、足裏に違和感を覚えた。何か硬いものが当たっているような感覚。
足を横に動かすと、その硬いものが足の動きに合わせて地面を引っ掻いた。
私は最初、釘を踏ん付けでもしたのかと誤解していた。



不思議に思って靴の裏を見ても、そこにはなにもなく、
床には代わりに100円玉が落ちていた。



100円だ、とそのとき私は思った。



同時に、拾うべきか、拾わざるべきかの思考が頭をかけめぐり始めた。



1円、5円、10円ならば私は見向きもしなかったかもしれない。
しかし、100円である。



周囲には人が大勢いるが、誰もその100円を気に留めた様子はない。
すなわち、私は拾う権利を最初に手にしたということだ。



しかし、なんだか、拾っては負けな気がした。
同時に、100円という金額を看過できない自分が、とても矮小な存在に思えてきた。



無数の思考を駆け巡らせつつも、結局、拾ってしまった。



諦観が押し寄せてくる。



私は拾った100円玉を、ポケットに入れた。
ことさらに財布に入れるのは、落ちている硬貨を
拾ったという矮小な事実をさらに貶めるような気がしたのだ。



その後、人に会いながらも、この事は頭の片隅に残っていた。




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短編小説のネタを閃き、その書き出しをここに書き記したけど、
悲しい事に、ドキュメンタリータッチである。