再読で見事にハマる――村上春樹「ノルウェイの森」

今のように感性が鈍った時は、とにかく作品に触れることにしている。
それも、かつて自分が凄く好きだった作品だったり、
あまり大衆性のない作品だったり。



そんな中、面白いな、と思ったのが、3年振りに読んだ
村上春樹の『ノルウェイの森』である。



誇張抜きで聖書的な位置づけにある本作のあらすじ説明は不要かもしれないが、
敢えて一文で言うなれば、大学生の"僕"と"直子"を軸にして展開する恋愛小説である。
そう、大学生である。



ノルウェイの森をはじめて読んだとき、私は高校二年生だった。
動機が動機、「とりあえず村上春樹は読んでおかないと」という俗物根性だったので
当時はこの作品が私に響くはずもなかった。



しかし大学生を二年近くしてきた今読むと、かなり気付かされることが多い。
友人の恋人である直子に対する、なんとも曖昧な感情であるとか、
永沢や突撃隊の、フィクションでありながら"こいつ居そうだなー"と想わせる描き方だとか。



主人公の"僕"に至っては、もう違和感が全開である。
こんなやついねーよと思いつつ、同時に彼が羨ましいと思ってしまう。
(別に彼がモテるからとかいう意味ではなくて)



改めて気付いた村上春樹の魅力は、
「そこに村上春樹の書いた文があると、何故か読んでしまう」
ことである。



私は文学作品の価値を
作品が読み手の価値観に作用し、作品を読むことでそれが何かしら変わること
だと考えているが、春樹作品はその主張があまり強くないというか、
春樹作品に初めて触れたときにそのほとんどが達成されてしまうように感じる。



すなわち、初めて村上春樹のあの独特の文体や、「やれやれ、僕は……」という独白に顕著な
常に目の前の出来事を他人事のように見つつ、周囲に流されない人物像、
そして"僕"をめぐる魅力的な女性たちなど、これらに初めて触れた時の衝撃は大きい。



しかしながら、それ以降に一作、また一作と読み進めていくにつれ、
段々と読み手の感情がフラットになっていくように私には思える。
それ自体はべつだん春樹に限った話ではないが、春樹はとりわけフラットになるのが速いと思う。



春樹を読めば読むほど、春樹作品の世界観に浸るのが目的になってきて、
その作品のストーリーや主軸題などに対する関心が薄れていく(私は)。



それは裏を返せば、読み手をただただ"文体"や"空気感"で引きずり込んでいく
独特の魔力があるのだ、と考える事もできる。



どこかの対談で本人が言っていたのだが、
「作家にとって一番大切なのは、自分の文体を持っていること」
という言葉の意味が、今回ノルウェイの森を読みなおして改めて解った気がした。



  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  



この作品の映画化、吉と出るやら凶と出るやら……。