夢の世界で、自分を見つめる
寝すぎた。
最近やたらと寝る癖がついてきてやばい。
おそらく疲れているから寝るのだが、むしろそのせいで疲労が溜まっていく。
さて。
その過眠癖と並行して、やたらと夢を見る。
夢を見るのは、好きだ。
あの、脈絡のない世界での小冒険がなんとも言えず、
目が覚めた時には一抹の余韻を残す。
実際、今日はこのような夢を見た。
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地元のとある公園。野球ができるグラウンドがある、かなり大きな公園だった。
グラウンドでは、級友が何人か野球に勤しんでいて、私はその脇に座って涼んでいた。
季節はおそらく夏。日差しがきつかった。
高校時代に憧れていた女の子がこちらに微笑を向けるも、
私はそれから目を逸らし、ふらりとグラウンドを後にした。
気付けば、周囲をガラクタに囲まれている。
そこは、廃工場だった。スクラップになった機械類が山積みにされている。
気味が悪くなって、いったんそこを後にする。
市街地を歩いてしばらくすると、何故かまた急にそこへ戻りたくなった。
ガラクタの山と再び向き合うと、そこには、疎遠になりすぎて忘れかけていた、友人がいた。
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この辺りで目が醒めた。
文章化してみると、なんとも、脈絡のない話である。
ただ、当事者たる私には、その意味がなんとなく解る気がするのだ。
フロイトは、「夢は無意識の産物だ」と言った。
もしも、私が無意識化に思っていることが夢の中に具現化されていたとするならば。
――私だから、ぼんやりと、それを解釈できる。
どうしようもなく悩んでいる時期が、しばしば訪れる。
たぶんそれは私に限らず、誰しもにあると思う。
この「悩み」というものを対象化するのは難しいが、そこには
「自分の手持ちの価値観を疑い、解体し、手放し、そして新たな価値観を模索すること」
という思考のプロセスが往々にして含まれている。現状に満足できていれば、そもそも悩む必要がないから。
自己解体と、自己肯定。
――かつて自分の信じたものを一旦手放し、かつて自分が否定したものを再び受け入れる。
それができたとき、「悩んでいた自分」には光明が射してくる。
この一連の過程を、あの脈絡のない夢が象徴していたような気がして、
自らの「夢」というものに、なんだか言いようのない愛着を抱いてしまった。