痛みを知ること


とあるイベントでお世話になった先輩に、とても印象深い方がいた。
普段は茶目っ気に溢れた、どちらかと言うと浮ついたイメージのある人なのだが、
その実、とてもよく人を見ていた。



彼はさりげなく、核心を突いたことを言う。



例えば、人前でテンパった人に対して、
「アガんな」と囃したてたり。



言われた側は、とっさに「別にアガってなんかないですよ」と切り返したくなる。
その感情が湧きあがると同時に、アガっている自分が対象化される。
自分の立ち位置がわかる、ということは、我に返ることに似ている。



他にも、長丁場のイベント終盤で疲れていそうなメンバーに対して、
「肩凝ってへんか?」と軽く肩を揉む形で、絡んでいるも見た。
本当に疲れている時にこうされると、自然ともう少し頑張ろうという気が起きるものだ。



そうやって、割と人に近づくタイプなのだが、
近づき方が気楽で、あくまでさり気ない。



そして、ふと、気分がラクになっている自分に気付く。
他の、彼と話している人を見ていても、きっとそうなのだろうな、と思う。



あるとき、私は彼に訊ねた。



――どうしてKさんは、そんなに人のことが見えているんですか?



私の訊き方があまり良くなかったせいか、
彼は、すこしやり辛そうな仕草を見せつつ答えた。



――別に、大したコトじゃあらへんよ。まあ……そうやな、痛みを知れば、自然と見えるもんやで。



これも、本当にさりげなく言われたことだけど、
後になればなるほど、心にずっしりと重みがくる言葉だと思う。



他人の痛みを知る。



このフレイズの語詞的な意味は、わかる。
言語的に発達途上な児童でさえも、その語の指すものは、漠然と理解できる。



しかし、年齢を経て、経験を重ねる事によって、
この語に対する理解はいっそう深くなり、同時に拡がりを見せていく。



彼が見た「人の痛み」とは、いかなる深みを持っているのだろう。
きっと、私よりもずっと根の深いものを見たのだ。



ここまで考えて、ふと、思う。
人から受ける傷を、恐れてはいけない。



他人が自分に踏み込むこと。
逆に、自分が他人に踏み込むこと。



そのどちらをも、恐れては、彼の知っている「痛み」には到達できないのではないか。



時には、自分の根底を揺るがしかねない痛みと向き合う時が来るかもしれない。
そこではきっと、逃げちゃダメだ。



――ううむ。
逃げちゃダメだ、にピンと来た人。
やっぱエヴァって凄い作品だよね。