義と心中する覚悟

先日久しぶりに会った友人達は、聡明な人の集まりだと思う。
しかしながら人間、近しくなれば互いのイヤな所が目に付き始める。


正直に言うと、中に若干言動の気になる人がいる。
(「気に障る」とか「気に食わない」ではない。あくまで「気になる」)


私が最も敏感に察知する他人の業(ごう)は、その傲慢さだ。
傲慢さに関してはなかなか鼻が利く方だと自負している。


それなりに一緒に遊びに行く人から、その傲慢さが
「鼻につく」と感じる瞬間は、なかなか辛いものがある。


例を上げると以下のようなケースだ。


自分「●●(漫画)読んだ? なかなか面白いよ」
友人「ああ流行ってるらしいね。でもあれって画が〜〜っぽくない?(マイナス評価)」
自分の発言「あーなるほど確かにそうかも」
自分の内心(見てもないのに作品貶すんじゃねえよ。何かと上から目線で評価したがる時期とか遅くても高校で卒業しろよ。だいたい「〜〜っぽい」って何、根拠のない判断とかただの妄想だろ。そんな浅学そうなこと言わないでくれよ……見ててイタいから)


↑における<内心>での思考は一瞬で回る。
同じような場面に何度も出くわしてきたし、
自分も昔はかなりイタい子だったから。


もう一つ例を挙げよう。


知人「友達ができないんじゃない、作らないの」
自分「またまた」(流す)
自分の内心(そんなの言い訳だろう。そもそも友人関係は、当人の人望やコミュニケーション力によって事後的に<できる>ものじゃないのか。作ろうと気負った結果完成するものは<役割関係>であって、それは<友愛>たりえないと思うんだけどな。人望の無さを意思のせいにしてんなよ。<自分まだ本気出してない理論>は見てて醜いって)



こういう時、相手の発言の傲慢さについて
指摘しようかしまいか、なかなか迷うのだが、
私は「ええかっこしい」なので結局言えない。


嫌われるのヤだしな。
まあ、自分と同レベルの人間と接してるうちは特に問題ないだろう。


だけど、自分より知識経験共に上回り、
かつ他人に厳しい人間に対してこういう言動取ったら死ぬだろうな。


まあ、来るべき時が来たらその鼻っ柱砕かれて盛大に学んでくれ。
言ってもわかんないだろうし。


……などと考える。


他にも、


「ああ、こういうこと言ってると人望が損なわれるんだな」
「うわー不快。こうはなりたくない」


とか思う場面は多々ある。
指摘しないことで自分も相手も傷つかないが、
自分の筋を通さずに友人の話を聞き流すのは些か礼を失していると思う。


そう考えてる自分も、また「慢心に対する慢心」を抱いているじゃないか。
「おれは慢心してないぜ」という慢心(仏教の教えにある言葉)。


そんな煩悶に悩んでいると、偶然コブクロの『Million Films』が耳に入ってきた。
2番サビの歌詞が秀逸だ。



ぶつかり合うたび また心が
破れたり解けたりするのは
もう一度 新しい結び目をつくるためさ


そこに涙が沁み込んだなら
もう二度と解けることのない
強さを持った 絆に変わるだろう


なんというドンピシャな歌詞。


その通り。


なあなあで流すよりは、
お互いの筋を通してぶつかり合って、
議論して、
一度摩耗して、
そこから距離の取り方を見つけるのが
最も強い信頼関係を作るのに繋がるだろう。


頭でも感覚でもわかるけどなかなか踏み出せない。


でも、「嫌われたく無いええかっこしい」のメッキで得た
紛い物の信頼を本物に変えるためには決意が必要だ。


腹括ろう。
秋学期楽しみだな。