過去は酸味と共に
1年時に履修していた、とあるゼミ形式の授業の話。
その回は<ファッション>をテーマとした授業。
現代の雑誌に追従するトレンディな内容ではなく、
ファッションの歴史から現代までを包括的に学習する内容。
課題テクストも『ファッション・システム』と題された文書で、
衣服のみならず流行の発生およびループの仕組みを体系的に指摘したもの。
それについて学生が発表、その後ディスカッションをし、
参加者全員で考察を深める、というのが一部始終。
その回の議論の落ち着きどころは以下のようなモノだったと記憶している。
ファッション(流行)の構造は私たちの購買意欲を刺激する。
例えば、私たちが現在着ている服。
これらは着続ければ10年くらい着ていられる。
しかし服屋の店員からすれば、お客には新しい服を
買ってもらわなければ儲けにならないわけだから、
こちらがお似合いですよ、あちらがお似合いですよ
昨シーズンは○○がトレンドでしたが、今シーズンは××がアツいですね
――と言って購買意欲を煽りたてる。
マス単位でもメディアが購買意欲を操作する。
雑誌、新聞、テレビ……。
そうしたモノが生み出すトレンドに
<論理性>や<歴史的正当性>などはない。
根拠なく繰り返す<ファッション=流行>。
そのシステムの中に我々はいる。
(当時参加してた皆さん、間違ってたらごめんなさい)
概ねこういった内容の話だった気がする。
もう、
現代思想・構造主義バッチに毒されているというか何というか。
思い出すだけで、頬の紅潮を禁じえない。
いちいちサルトルやらレヴィ=ストロースやらフーコーやらの名前出す必要なんかなくて、
一度<消費者>から何らかの<生産者>になる経験、
すなわち<社会に関わる>経験をすればわかる話ではないか。
当たり前のことに小難しい解釈を貼り付けて行くのが<研究>
だと思っている学生・院生・教授がなかなか多い気がしてならない。
社会に参画しないと気づかないことだけど、
一般的な研究者はその経験を避けた人が多いから。
思想や哲学の面白さは、
学会という<聖域>の中で文献を睨みながら行うよりむしろ、
社会の中で経験を積んでから文献を読み解くことで、
「ああ、そういうことって、あるよね」
としみじみ納得するところにあるのではないか。
だからこそ哲学・現代思想はもっと在野に降りてきて欲しい。
教授の権威づけのための、難解な専門用語を並べたてるだけではなくて、
できるだけ平易な言葉で綴られるべきだと私は考えている。
(内田樹氏ほど面白おかしくやってしまうにはかなりの文才と知識を要すると思うが)
<大人>にはなりたくないないと思いつつ、
20歳になった今はこのような考えだ。
最初に挙げたような考察で
「へぇナルホドー」と驚いていた時分からしてみると幾許かの進歩はある。
1年で人は変わるものだな、と自分を見て実感する。
歳月が経つのは早いが、心がけ次第でいくらでも濃くすることはできる。
難しいな。
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