「大学」という環境、あるいはライフスタイル
近ごろ昔の友人と再会する機会が増えたが、
正直言ってそこまで楽しんだ記憶はない。
友好関係を維持する、お互いの近況を知る、
というある程度の収穫はあっても、
あまり充実感には繋がっていない。
充実感がないというよりは、むしろ
「気付きや発見、驚きがない」と記すのが正確だろうか。
知人の近況を聞くと、
「環境の活用法が高校時代と変わっていない」
人が多いように感じる。
すると若干肩透かしを喰らったような感覚に陥るのだが、
それには以下のような理由がある。
年齢を重ねるにつれ、環境のステップは上昇していく。
たとえば義務教育の時期は
「地域的な繋がりを基にした、雑多な集団」
である小学校や中学校に所属する。
また高校や私立の中高一貫校に進学すれば、
「基礎的な学力で選抜された集団」
に所属がシフトする。
そして大学ではより高度に基礎学力でセパレートされるのだが、
<大学>という環境は、高校までとは決定的に異なる点がある。
それは、
「社会に最も近い距離にいる学生であり、自由度が高い」
ということ。
言いかえると、
「自分で考え、自分で決めて行動する」
余地が多いということである。
これはとても難しい。
高校までは、
・学校における授業
・予備校の模試
・大学が用意している受験問題
・所属した部活やクラブにおける活動
を上手にこなすことが優秀さに繋がる。
大学ではそうではない。
学問、サークル活動、部活、アルバイト、
資格取得、就職活動、実践型インターン、起業……
こうした様々な選択肢が転がっている中で、
4年間という時間のリソースを何にどれだけ注力するか。
その配分を自分で考えなければならない。
自由度が上がった分、与えられた時間を活かせなければ、
それは目に見えない損失となって返ってくる。
「あの時、あれをしておけばよかった」
という後悔がそれである。
こうした価値意識が希薄で、
授業・サークル・バイトを惰性でこなすだけの学生が多い。
自分はそういう人と話していると虚しさを感じる性質だ。
逆に「自分で考え自分で決めて行動」のできる
突き抜けた人たちが好きであるし、
自分もそちら側へ行こうと常に考え、行動の規範とする。
話を戻すと、古い知人の多くがあまり突き抜けてはいない。
ともすれば、彼らは同士ではなくただの反面教師でしかない。
それが幾ばくか悲しく、寂しい。
この記事をオトナの方が読めば、
「同級生とかって、そういうもんでしょ」
という感想を抱くかもしれない。
頭ではなんとなくわかるが、まだ腑に落ちてはいない。