マゾヒズム的読書、そして対話

今日から大学の授業が再開した。
久し振りに授業に出ると、これが予想以上に面白い。


本日は、


ルネサンス美術
パレスチナ問題


についての講義を受けた。
(後の二つは休講。大丈夫か早稲田!?)


どちらの講義も相応に予備知識を要求するものであるから、
相当数の参考文献を読まなければならない。


――そう思い、大学の図書館で7冊の本・学術書を借りてきた。
当然ながら、全ての本をくまなく精読する気はない。


そうではなく、これらを積み上げて、片っぱしから読む。
面白い、と思ったところだけ書き記し、
対して響かない文章は無視して読み流す。


記憶できないと意味がないじゃないか、という人がいるかもしれないが、
必ずしもそうとは限らない。


脳裏に焼きつくような内容を持っている本は、数冊に1冊程度。
さらにその内容の核心は、1冊の中の5%くらいしかない。
(私の感受性や読解力が足らないせいかもしれないが、概ねそういうものだと思っている)


かたや、例えば「ルネサンス芸術」という項目を含む参考文献は、
数十〜百単位で存在している。


こうなってくると、短期間で包括的に知識を得るには
上に挙げた「積読」方式でなければ到底不可能である。






また、「量」を積み上げると、ある瞬間から「質」に転ずる。
定量に達した瞬間から、その学問領域にある文献の意味内容や
学術的位置づけが急にわかるようになってくる。


これは一般生活でも言えること。


人前で話すのが苦手なら、とにかく人前で話す場数を踏めばいい。
口下手なら、とにかく人と片っぱしから話したらいい。


もしそうしたあなたが大学生ならば、本格的に営業をさせてもらえる
インターンの一つでもしてみれば価値観が激変するだろう。
私がそうだったのだから間違いない。


ただ、対人コミュニケーションは「積読」のように
流れ作業で行うわけにはいかないのが難しい所だ。


特に、お互い「見知らぬ」状態から「末永いお付き合い」
に発展させるには、相当な労力を要する。


相手は何を求めていて、自分には何ができて、
最終的に何をするのがお互いにとってベストな選択肢なのか。


私はコミュニケーションのセンスがないから、
場面場面で考えていかないと思うような結果が出ない。


だがむしろ、そうした試行錯誤の機会が与えられているのは幸運と見るべきか。
なんというマゾヒズム