教養主義とオタク
教養主義とは何か。
私なりの解釈で要点をまとめると、
・読書、およびそれから得た知識を何よりも重んじる
・難解な思想や哲学などについて「知っている」ということを前提とし、
そうでなければ馬鹿にされる
・衒学的な議論を好む
というのがその核心だと解釈している。
例えば1960年代ごろの大学生が「教養主義最後の世代」
と言われているが、かの時期には学生運動真っただ中で、
フランスにおいても名高い思想家が続々と論文を発表していた。
すなわち、マルクス思想や、
サルトル、レヴィ=ストロース、ラカン、バルト、デリダなど、
彼らの書物が非常に盛んに読まれた時代である。
それらについて「知らない」ことは「恥ずかしい」こととされ、
その手の話についてある程度議論ができることは当たり前だった。
しかし、結局それらも「衒学」的なものにすぎない。
すなわち、
「ろくすっぽ内容もわかっていないのに、断片的に読みかじった知識だけをひけらかし、
それが第一目標化している」
という状態なのである。
(我が文学部でも、ごくごく一部ながら、こうした思考スタイルは継承されている)
教養主義とは、えてして「めんどくさい」ものだ。
例えば、音楽や読書などの「趣味」についても、
ただ「好きだ」という評価を許さない。
教養主義が蔓延した共同体の中で、例えば、
ヘタに「乙一が好きだ」とでも言おうものならば、
すかさず「文章表現の軽薄さが目立つ」という「批判的評価」が飛んでくる。
それに対してはこちらも理論武装して、
「彼の文章表現は<端的>と評すべきではないか。
一読しただけで読者に情景を想起させる文章表現には類まれなる才能を要する。
ゆえに乙一の文章の簡潔さ、端的さを評価できないあなたは
美文にこだわるあまり、メディアとしての文章の価値を見落としていると言わざるを……」
などのような切り返しをしなければならない
(このような言い回しもどこかからの受け売りに過ぎないのであるが)。
――現代風にいえば、「オタク的な価値規範」と言えるかもしれない。
傍目に見るととても非生産的に見えるかもしれないが、
これはこれで大切なことである。
理論武装に奔走する過程で知識がつくし、
なにより「知識の付け方」を覚えることができる。
「知識の付け方」を理解したとき、「ただの知識」は教養に変わる。
これについてはまた拙筆を割かねばならないが……
とりあえず、
中二的なモノの考え方をする時期は、教養人になるためには欠かせない時期で、
人間何かしら「オタク」になれる分野があれば人生楽しいよね、
という話でした。