他人の経験は、それだけで面白い


昨日書いた記事を読み返してみると、
不思議と驚いた。



まるで、小説みたいだ。
そう思った。



別にカッコつけようとしたのではなく、
同窓会を通じて胸中に生じた郷愁を書きとめようと思っただけ。



そしてそれを他人に見せるからには、なるべく場面がしっかり伝わるように丁寧に書こうとした。
それだけで、どこか心に引っかかるエピソードが成立する。



考えてみると、これは小説を成す本質のひとつなのかもしれない。
すなわち、



「他人の経験は、それだけで小説的な特性を持つ」



ということである。



他人の経験。
それは、読み手からすると「作者」かもしれないし、
作中の登場人物かもしれない。



その彼の経験を丁寧に書くことは、基礎であり、テクストを成立させる原則だ。
技巧に目が行くとついつい忘れてしまいそうになるが、
物書きを目指す人はつねに心にとどめておく必要があることだろう。

10代のころ、痛み、喜び。


心が成人式の余韻をまだ引きずっている。



そうそう、同窓会では、とりわけ印象深い出会いがあった。



高1の時、クラスメイトだった女の子。
そして、それ以降学校に来なくなった女の子。



  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □  ■  □



彼女と私は、小学生のころから面識があった。
当時はそうとう仲が悪く、顔を合わせば悪口の言い合い、
といった感じで、お互いに日々罵りあっていた。



中学に入学してからもその関係は変わらず、
さらに間の悪いことに二人とも同じクラスだった。



悪口、罵声の応酬。
拙い感情のぶつけ合い。



二人とも、あまりにも幼かった。



2年以降はクラスが別になり、しばらく疎遠だったが、
3年生のとき、また話す機会ができた。
「友人の友人」という関係から、である。



一年近い空白を挟んでのコミュニケーション。
この時期の一年間は大きい。
少年少女の感性が大きく揺れ、変わり続ける。



だから、前のように罵り合いにはならなかったけど、
正直言って、どのように話したらいいのかわからなかった。



そうして、ぎこちないやりとりを続け、しばらくが経ったころ。
高校(中高一貫校)の新クラスで、私と彼女は同じクラスになった。



話す機会が増えるにつれ、いつの間にかわだかまりも溶け、
気付いたころには良き話し友達同士になっていた。
リアルでもメールでも、今から考えてみるとずいぶんとりとめのない話をしていた気がする。



今だからわかるけど、衝突できるというのは、
相手を強く意識しているということである。
無関心なら、衝突すら起こらない、平行線の関係になるから。



相手に対する意識が強いというのは、良仲と悪仲のどちらにも転ぶ可能性がある。
良仲であっても、ふとした出来事がきっかけで険悪になりかねないし、
たとえ悪仲であっても、何らかの形でわだかまりが溶ければ、まるで人格が変わったかのように仲良しになったりする。



私と彼女は、後者だった。



そんな出来事が年度の最初にあったからか、
高1のころは、けっこう楽しかった。
クラス仲が全体的に良く、男子サイド・女子サイドの交流距離も近かった。



数か月が経って、気付けば、
私と彼女を含め、よく遊びに行っていた集団で、派閥ができていた。



遊びに行くだけでなく、たとえば携帯SNSを作ったりして
繋がりを強めて、内輪でのコミュニケーションをどんどん充足させていった。
学校に行くのが楽しく、なかば夢心地のような思いだった。



しかし、あるとき夢から醒めたように、現実の冷たさが肌に触れる。
気付いたときには、その集団はクラス内で孤立しつつあった。
内輪でのやりとりを充足させることは、外部との隔絶を強めることに等しい。



ひとたび「あれは内輪の集団だ」というレッテルを貼られると、
人の目には、その集団の様々な部分が、悪く映ってくる。



授業中の私語が鬱陶しい。
休み時間もなんだか騒がしい。
なんかあいつら、ウザいよね。
勝手に盛り上がりやがって。
それこそ、勝手にしてくれ。



3学期になるころには、このような空気が蔓延し、
クラスはバラバラになっていた。



そのころである。
――彼女が学校に来なくなったのは。



しかし私は、彼女に連絡を取ることをしなかった。
共通の友人と「心配だね」とか話すことはしても、
本人に直接メールや電話で問いただすことが、何故か、できなかった。



どうしてできなかったのか、いまでも理由はわからない。
たぶん、当時の私は泥臭いことを嫌い、人に踏み込むことを恐れていたのだと思う。
嫌われるリスクを被ってでも、その人に声を届けようとする気概が、欠けていたのだ。



数か月経って、私は彼女が学校を辞めたことを知った。
私はべつだん泣きもしなかったし、直情的に悔しがったりもしなかったが、
その心には、漠然とした空虚感と後悔が残った。



何故あのとき、もっと必死に自分から連絡を入れて、引きとめなかったのか。
結果が変わったかどうかは、今でも解らない。しかし、「自分がやらないで誰がやるんだ」とばかりに、もっと自分に自惚れてもよかったのではないだろうか。



このもやもやとした感情はその後しばらく続いたが、
人は実にいい加減なもので、気付いたら忘れていた。
いや、感情が時期と共にだんだんと薄れていって、あるとき風化したのだ。



風化してしばらくした、高2のとき。
私は、ある朝、通学中にあるコンビニに寄った(買い食いは校則違反だが、このさい時効だ)。



おにぎりと紙パックの緑茶をレジに出すと、
そこには彼女がいた。



話す言葉を失念するくらい、私は驚いていた。
彼女は昔のように笑って、少しばつが悪そうにはにかんだ表情で、私の会計を済ませた。



この時、会計の短い時間で何を話したかは、憶えていない。
記憶に残らないくらい、短い会話だった。
私も急いでいたし、なにより仕事の邪魔をしては悪いという遠慮があった。



だが、このとき、心の中の欠けた部分が戻ってきたような感覚を得た。
そして、「元気にしているなら、それでいい」という妙な納得があった。



私と彼女が会ったのは、それが最後だった。
――成人式後の同窓会までは。



市内の某ホテルのパーティ会場に、彼女はひょっこり顔を出した。
振り袖姿は見れなかったが、そのパーティでは黒を基調としたトラッドな服に身を包んでいて、それがよく似合っていた。



200人近く参加者がいたので、あまりじっくりは話せなかったが、
今は関西の大学に行っている、と聞いてなんだか安心した。



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大学生活も2年が過ぎようとしていて、今年は勝負の年。
気を引き締め行動を起こすにつれ、10代の頃の感性はだんだんと薄れていく。



しかし、どこかに置き忘れてきたその感情が、
旧交に触れることで急に蘇ってくる。



それが、同窓会の持つ価値かもしれない。



正直、出る前は「今更地元ノリで騒いでもなあ……」と
斜に構えている所があった(これが自分の悪いクセ)けれど、



案外悪くないじゃないか。



10代のころ、
皆さん、何か心に残っている想い出はありますか。

成人式を経て、本当に成人できた感覚。


成人式と同窓会を終えた感想は、
まるで夢の中にいるかのようだった。



約2年振りに顔を合わせる高校時代の面々。
雰囲気が変わった人も、変わらない人もいる。



彼らの顔を見ると、ふと、過去の時間が流れ始めた。
大学生活という日常の中に、非日常的なひとときが割り込んだのである。
不思議な感覚だ。



自然と、高校時代の自分を振り返る。
かつての学友との交流は、否応なしに当時の私の人間関係を想起させるから。



そこで生じた疑問。
――高校時代の自分は、誰だっただろう。



部活をはじめ、特定の何か集団に帰属した記憶の乏しい私。
「つるむ」というのがあまり好きではなかったから、
こういう同窓会のような場では戸惑うのだ。



学友との関係における「気の置けない」度合いが、相対的に低い。
会話をするにしても、どこか遠慮が生じる。
そこにあるのは、探り探りのコミュニケーション。



場に「馴染んでいる」という実感が薄く、
その違和感を酒でごまかす。
意味もなく大声で笑ったりして。



いきおい思考は内向きに、負の方向へ向かう。



高校時代の三年間、あれでよかったのか?
もっとほかにしておくべきことが色々あったんじゃないのか?



この煩悶が頭をかけめぐった。



しかし、しばらく悩んで、また気付いた。



――そうやって過去のことを振り返って疑問を持つということは、それだけ自分が成長した証ではないか。



そのときは気付かなかったことに、今は気付けること。
「気付き」の多さは、その人の人間的な成熟度と比例する。
逆に、子供は、自分の周りのことしか見えない。



生まれたばかりの赤子は、ほとんどの時間、母親だけを見て過ごす。
そして成長と共に、友達や先生などへと、目を向ける対象が増えていく。
さらに、観察したものを自分なりに理解し、思考に定着させることが「気付き」である。



気付きが多いということは、それだけ多くのものを観察し、吸収しているということだ。
その一つを、この同窓会で戸惑い、過去を振り返った経験から得た。



してみると過去を後悔することも、あながち悪いことではないのではないか。
というよりも、後悔から気付きを得られれば、それは反省へと変わり、次に繋がっていく。
踏み外した道も、やがて積み重なり、揺らがないものへと変わっていく。



なによりも、私自身の経緯を、落ち着いて振り返ってみると、
「こうなるべくしてこうなった」としか言えないのだ。



高1までは経済学部を志望していた。
高2のとき、部活等がない私は、自らのアイデンティティを文章に見出した。



あるとき「小論文コンテスト」なるものに応募することを思い立ち、
そこで内田樹氏のブログに出会い、著書を読んで、大いに感銘を受けた。



これが私を文学部仏文科へ行くことを思い立たせた。
小さな立志の瞬間である。



だから、当時の私がもし部活に入っていたら、今この文章はない。きっと。
そして私は今の人生を楽しんでいる。



これでいい、とは全く思っていない。
むしろ現状には不満だらけだ。
だからこそ、まだまだ成長できる。



――凄い。
成人式を終えて、いまこれを書いている瞬間、
ほんとうの意味で成人した気がした。

成人式開幕 宣言文を書いた

タイトル通り、色々とあって先月に
地元の成人式の開幕宣言文を書かせていただいた。
それを、私が読み上げることになっている。



いや、厳密には運動会の選手宣誓のように、
もう一人女性の方がいて、二人で分担して読む。



形式的で面白みがないかもしれないが、
ここに記しておく。
(あくまで自身の軌跡として)






A「わたしたちは 本日 成人として 新たな門出をむかえました」
B「これからは 自分たちの未来を 自らの手で切り拓いていくため」
A「大人としての 自覚と責任をもって 主体的に行動していくこと」
B「自分で考え 自分で決め 自分の足で 一歩一歩進んでいくことを誓い」
A「ここに 平成22年 高知市成人式典の 開会を宣言します」
B「平成22年1月10日 新成人代表――(略)」

真っ当なアドバイスは意味がない


悩んでいたり、
何か問題がある人に対して、
100%正しいアドバイスをしても、あまり意味がないのではないか。



例えば喫煙者に禁煙してほしいと思っていたとして、
「煙草は身体に悪い」とか、具体的にこういう被害があるとか
言われても、絶対に響かないと思う。



そうではなく、
「絶対良くないとわかっているにもかかわらず改善できない」
のは何故か、と考え、考え抜いて、
その人の感情に寄り添わなくては、解決しない。



だから、ある人傍目に見てどうしようもないことをしていても
それを頭ごなしに「駄目だ」と思わないようにしたい。
難しいけど。



人の心がわかるようになりたい。

「Let it be」の意味がようやくわかった気がする

課題をたらふく溜めこんでいたにもかかわらず
年末年始はとても怠惰な生活を送っていた。



だから、大学がまた始まってから
エンジンをうまくかけられるか、ということには
一抹の不安があった。



だが。
意外に、なんとかなるものだ。
――そんな感慨を覚えた。



毒にも薬にもならない授業に出たり、
クラスの面々と脈絡なくダベったり、
嬉しいメールが突如来たり、
サークルに顔を出して赤入れをしたり、
まったりとした会話に花を咲かせたり。



それだけで、そんな些細なことだけで、
なぜだかエネルギーが得られる。



思うに、
水に入れば人は泳げるし、
自転車に乗ればそれをこいで進めるし、
スキー板を雪道で履けば滑っていける。



――それと、本質的に同じようなものではないだろうか。



人が向こうにいる物事は、
「人に会い、そのエネルギーに触れる」
ということさえできれば自然とうまくいくものだと、改めて思う。



内容なくてすいません。
時間が……。

起業サークルの大学生が好んで使いそうな単語ランキング

大学には、「鼻につく集団」というのがある。
例えば、チャラさの象徴・テニスサークルなどがそれにあたる。



中でも、「起業サークル」なるものが最もいけ好かない
主観だが、確信している。



もちろん、たまたま私が遭遇した所の印象が悪かったにすぎず、
感じの良い所もあるかもしれないけれど。



さて。
その手の集団を象徴するキーワードを、
ここに挙げてみる。



これを多用していれば、傍から見ていて「鼻につく」集団になっている可能性が高いということだ。



1.「費用対効果」
2.「ビジョン・ミッション・アクション」
3.「イノベーション
4.「グローバル」
5.「経営」(運営と言わないのがポイント)



――。
これを多用していると、何だか「いかにも染まった感じ」に陥っている可能性がある。
こういうのを、一言で表現できるのが、「クサい」という言葉だ。



クサくなってたら、いやだ。
人は、自分の体臭や口臭を自分で認識できない。
だから、気をつける必要がある。