運命の出会い――人生の起爆剤となった瞬間――


友人宅にて。
愛とは何だ、というテーマを肴に三人で夜通し語り明かした。
時間がすぎるのも忘れ、気がつけば午前9時になっていた。



愛とはなんだ。



実のところ、私には人間不信(特に女性不信)のきらいがあって、
打算なき人間関係とか、無償の情というものをいまひとつ信用していないところがあった。



以前はもっと純粋に目の前の人に向きあえていた気がするのだが、
交友関係が拡がって、凄い人にもたくさん出会って、それに感動するがゆえに普段の交友がつまらなく思えたり、同時に思うようにいかないことも増えて、ここ数カ月で急激にそんな感情を抱き始めていた。



愛情ってなんだよ、ウサンクセエ。
という、なんとも厭世的で斜に構えた心。



だから褒めてもらったり情をかけられたりしても、純粋に喜ぶ前に
「なぜ自分なんかが優しくされるのだろう」(その理由がどこにある?)
という疑問と不信感が先行していた。ある種の対人スランプである。



鋭い人間と言うのは凄いもので、針穴に糸を通すかのようにそれを見透かす。
この夜私が話していた二人の嗅覚も、そこを何かしらの形で察知していたと思う。



その友人が、人を愛するとは、恋愛に限らず誰かを好きになり、
愛するとはどういうことかについて、純粋に熱く語ってくれた。



自分の心に張り続けていた虚勢やら、意識的にドライに氷漬けていた部分やら。
不思議なことに、彼女の話を聞いていると自然にそれらが解けていくような感覚を覚えたのだ。



「愛について語る」という行為を、決して空回りさせずに説得力を持って、
しかもそれが本当に相手に対して響く「語り」にできる人はそう多くないはずだ。



人に対して何かを「与える」こと。
自分の弱さや欠点を受け入れ、それが人に対する思いやりになること。



こうして文字にすると「安っぽい」と思われるかもしれないが、
本当に、感覚的な経験則で理解している人は少ないのではないかと思う。



貴重な出会い。というより、大学に入って最大の出会いだったと思う。
この「出会い」というものも不思議なもので。



(1)ゼミが終わった後の飲み会に「出る」という決断をし、
(2)そこで会話をはずませ、
(3)友人A宅での二次会に出て(普段の私なら絶対ここで帰る。一年くらいそうしている)、
(4)そこに友人Bが来て、
(5)終電を逃がすまで飲み(これに至ってはほぼあり得ないことである)、
(6)友人B宅に移り、
(7)自分含め6人いたうちの二人が寝て、一人が帰った。



これらの過程を経て、B君と私と、件の彼女の三人で語り明かす機会に至っている。
そもそもゼミに出るのだって、一時本気で辞めようと思っていたことがあったし、
考えていくと物凄い確率でこの語らいの場ができているのである。



しかし、実際にコトが起こってみるとなんだか納得がいくのが不思議で。
必然のような偶然。偶然のような必然。



之が運命なりや。
生きていてよかった。