仕事人としての姿勢が見える――太宰治「もの思う葦」
太宰治のエッセイ集「もの思う葦」を読んでいる。
その中の一編「自作を語る」が実に実に面白い。
というよりは、響いた。
- 作者: 太宰治
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2002/05
- メディア: 文庫
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以下引用。
「私は今日まで、自作について語ったことが一度も無い。いやなのである。読者が、読んでわからなかったら、それまでの話だ。創作集に序文を附ける事さえ、いやなのである。
自作を説明するという事は、既に作者の敗北であると思っている。不愉快千万の事である。私がAという作品を創る。読者が読む。読者は、Aを面白くないという。いやな作品だという。それまでの話だ。いや、面白い筈だが、という抗弁は成り立つわけは無い。作者は、いよいよ惨めになるばかりである。
いやなら、よしな、である。ずいぶん皆にわかってもらいたくて出来るだけ、ていねいに書いた筈である。それでも、わからないならば、黙って引き下るばかりである。
私の友人は、ほんの数えるくらいしか無い。私は、その少数の友人にも、自作の註釈をしたことは無い。発表しても、黙っている。あそこの所には苦心をしました、など一度も言ったことが無い。興ざめなのである。そんな、苦心談でもって人を圧倒して迄、お義理の喝采を得ようとは思わない。芸術は、そんなに、人に強いるものではないと思う。
(中略)
自作を語れ、と言われると、どうして私は、こんなに怒るのだろう。私は、自分の作品をあまり認めていないし、また、よその人の作品もそんなに認めていない。私が、いま考えている事を、そのまま率直に述べたら、人は、たちまち私を狂人あつかいにするだろう。狂人あつかいは、いやだ。やはり私は、沈黙していなければならぬ。もう少しの我慢である。
(中略)
どうも、自作を語るのは、いやだ。自己嫌悪で一ぱいだ。「わが子を語れ」と言われたら、志賀直哉ほどの達人でも、ちょっと躊躇するにちがいない。出来のいい子は、出来のいい子で可愛いし、出来の悪い子、いっそう又かなしく可愛い。その間の機微を、あやまたず人に言い伝えるのは、至難である。それをまた、無理に語らせようとするのも酷ではないか。
私は、私の作品と共に生きている。私は、いつでも、言いたい事は、作品の中で言っている。他に言いたい事は無い。だから、その作品が拒否せられたら、それっきりだ。一言もない。
私は、私の作品を、ほめてくれた人の前では極度に矮小になる。その人を、だましているような気がするのだ。反反対に、私の作品に、悪罵を投げる人を、例外なく軽蔑する。何を言ってやがると思う。
(中略)
友人は、ありがたいものである。一巻の創作集の中から、作者の意図を、あやまたず摘出してくれる。山岸君も、亀井君も、お座なりを言うような軽薄な人物では無い。この二人に、わかってもらえたら、もうそれでよい。
自作を語るなんてことは、老大家になってからする事だ。」
なるほど。
この文章には、一作家としての太宰の姿が映っている。
日頃から小説や文章を書く人には、何かと参考になったのでは。
しかし、これは文章書きに限ったことではない。
他の仕事でも、自分の仕事について、そのプロセスを語るのは些かナンセンスだと思うのだ。
プロは結果を見せ、それに対して代価を貰う。
実践するのは難しいけれど、それが理想であり、目標なのだろう。